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【iRONNA発】韓国人こそ「歴史を直視せよ」と言いたい! 一色正春氏



11月2日にソウルで行われた日韓首脳会談=韓国・ソウルの青瓦台 前回「韓国が日本を見下す理由」で述べたように、日本は朝鮮との併合までに日清日露の戦争をはじめ過酷な道のりを歩んできたのですが、その道のりに対する解釈の違いが現在の慰安婦問題をはじめとする日韓両国が争いのもとになっています。両国の主張は以下の通り(iRONNA)

■日本側

日本は極東アジアに迫りくる西欧列強による侵略の魔の手に対抗するため、近代国家へと変貌を遂げ、隣国の朝鮮とともに対抗すべく努力したが、朝鮮は華夷秩序の序列にこだわり日本との話し合いすら拒み、自国内での権力争いに没頭していたため近代化に遅れ、自力で当時の激烈な国際社会の荒波を乗り越えられず、やむなく日本との併合という道を選ばざるを得なかった。

■韓国側

朝鮮に先んじて近代化に成功した悪の帝国日本が、世界征服の手始めとして平和に暮らしていた朝鮮の豊かな富を奪うため武力により侵略し植民地にした。それまで多くの文化文明を教えてやったのに恩を仇で返された。

というふうに両国は全く違う解釈をしています。なぜ、そうなるのかというと両国の歴史に対する考え方が根本的に違うからです。

 

 

日本では様々な資料に基づき歴史の事実を認定しますが、韓国では最初から自国に都合の良い結論があり、それに合わせて資料を集めるなどして筋書を作るため、同じ事象でも全く違った話になるのです。特に日本に関することは、長年の反日教育により韓国=善、日本=悪という絶対的な方程式が創られ、それは変えることのできない大前提となっているため、かなり強引な解釈を重ねた無茶なストーリーに出来上がっています。

彼らは、ことあるごとに日本に対して「歴史を直視せよ」と言いますが、それは、日本の善行を無視して虚実とりまぜ韓国に都合の良いように作られた話を認めて日本が一方的な悪役になれということです。普通に考えれば、そのような話を認めることなどできるはずがないので、日本から歩み寄る余地はありません(歩み寄りたい人が永田町や霞が関に少なからず存在していますが)。逆に、彼らも極端な反日教育によって作られた世論に逆らって日本を擁護しようものなら社会的に抹殺されてしまうため、例え自分たちが間違っていたことに気が付いたとしても日本の行為が正しかったとは公式的に認めることなどできません。

特に慰安婦に関しては神聖視されており、彼女たちの証言に少しでも疑義を挟めば「帝国の慰安婦」を執筆した世宗大学の朴裕河教授のように訴えられて、裁判所に給料を差し押さえられてしまいかねません。そのような社会で本当のことを言えるはずもなく、いくら両国で日韓の歴史を共同研究したとしても現段階で両者の溝が埋まることは考えられず、日本としてはありもしなかったことを認めて謝罪などせずに、淡々と事実を主張し、決して彼らに迎合することなく何百年かかろうとも彼らが反日教育を止めて事実に向き合える社会になるのを待つしか方法がありません。

そのためには、彼らが作り出した偽りの物語に惑わされないよう、正しい歴史を知る必要がありますが、残念ながら我が国の公教育の場では、日本の立場に立った本当の歴史を教えてはくれません。そこで、その一助になるべく日韓双方の主張が大きく異なる主な出来事を取り上げてみようと思いますが、その前に当時の朝鮮人が日韓併合を、どのように受け止めていたのかということを整理してみたいと思います。

いかなる社会体制の変革であっても、万人が喜んで受け入れることなどありません。特に社会システムが急激に大きく変わる場合はなおさらで、日本でも明治維新に不満を持った士族が各地で反乱を起こしています。

まして日韓併合というのは、いくら自らが望んだこととはいえ他国の人間、しかも自分たちが一段下に見ていた日本人に事実上支配されるのですから不満を抱く人がいるのは当然なのですが、だからと言って全国民が反対していたというのは針小棒大な話で、本当に全国民が反対していたのであれば、あのように血を流すことなく併合することなどできなかったはずです。

今の感覚で考えると、国がなくなることに賛成する人間などいないと思いたくなる気持ちもわかりますが、そもそも当時の朝鮮は日清戦争が終わるまでは清の従属国で独立国ではなく、その後も権力者たちが己の権力の保持のために日清露の間を渡り歩きながら国益そっちのけで争い、国王自らがロシア公使館に逃げ込み一年間も引きこもり生活を続けながらロシアに権益を切り売りするなど、とても自力で独立を保てなかったことに鑑みれば、とても現代の常識が通用する世界ではなかったと考えるべきでしょう。

それに当時の朝鮮は厳しい身分制度により明確に階層が分かれており、一旦その身分に生まれたからは原則として死ぬまでそこから抜け出すことはできず、その制度によって分けられた人たち同士は結婚もできなかったくらい住む世界が全く違っていたため、現代の国民国家のような一体感や愛国心を持つことは難しく、併合に対する考え方も、それぞれの階層や立場によって違ったと考えるのが妥当です。

当時、全国民の2~4割いたとされる、死ぬまで奴隷としてこき使われる運命にあった未来に何の希望もない奴隷階層の人たちにとっては、国のことよりも自分たちが日々生きるのに精一杯で、朝鮮がどこの国と併合するかなどという問題より、奴隷として扱われている自分たちの待遇が改善されることの方が重要だと考えるのが普通で、日本と併合することにより身分制度が廃止されて自由が得られたことに対して不満を抱く人は、あまりいなかったかと思われます。

これは現代の北朝鮮の人たちの心境を想像してみれば良くわかる話で、金一族をはじめとする労働党や軍の支配階層に属し権力をほしいままにしている人たちは体制維持に懸命で自分たちの地位が脅かされるような形での南との統一には決して賛成しないでしょうが、同じ支配層でも主流から外れた人間は自分たちが権力を握れるのであれば、日々食うや食わずの境遇にある人や収容所に入れられている人たちは自分たちの暮らしが楽になるのであれば、現体制が崩壊しようとも南との統一を望むでしょう。そして統一後、本当に自分たちが権力を握り、暮らしが良くなったとすれば、国がなくなったことに対して不満を述べる可能性は低いと思われます。

同じように、当時、支配層をはじめとする奴隷以外の階層に属していても日韓併合により官位や特権を得るなど、何らかの新たな利権を手にする人たちが日韓併合に反対していたとは考えにくい反面、併合によって既得権益を奪われる人たちは、猛烈に反対したことは想像に難くありません。今、日韓両国のマスメディアが当時を振り返るとき、いわゆる独立運動家は大きく取り上げますが、逆に大韓帝国最大の政治団体「一進会」が併合に対して積極的賛成であったことなど、賛成派が少なからずいたことについては、ほとんど語られることがありません。私は何も、多くの国民が諸手を挙げて日韓併合に賛成していたという極端なことを言いたいわけではありません。

要は、今の韓国が主張するような「一部の親日派=売国奴以外の大多数の国民は併合に対して猛烈に反対していた。」という話ではなく、併合に反対した人、賛成した人、賛成反対と簡単に割り切れなかった人などなど、様々な立場の人がいたであろうという話です。それを理解せず、真に国を思い日本との併合しか祖国の生きる道はないと断腸の思いで日韓併合を推進した当時の政権担当者を、今なお売国奴扱いしている韓国の現状は見るに忍びないとしか言いようがありません。

そこで本稿では、そのようにさまざまな考え方の人がいたという前提で、出来る限り客観的に過去を検証しようと思いますが、ただし何事にも裏と表があり、同じ事象でもどちら側から見るかによって受け止め方に大きな違いが生じることもある訳で、そのような場合、私は日本の側から見ますので、韓国側から見た受け止め方とは違う場合もあるでしょうが、そこはご理解ください。

■身分制度

1984年に朝鮮国内で発生した農民の反乱に乗じて清が出兵しようとしたことに対抗した日本が日朝修好条規を理由に、朝鮮政府に対して自国の独立の確認と近代国家になるための内政改革を促しました。これを受けた朝鮮政府は身分制度の廃止を含む改革を推し進めるようになり奴隷制度は廃止され、1909年には近代戸籍制度を導入して、それまで姓を名乗ることを許されなかった人たちも姓を名乗ることができるようになりました。

■土地政策

1910年から1919年の間、朝鮮総督府が土地の測量調査を行い、それまであやふやであった土地の所有権を確定しました。原則、地主の申告通り所有権を認め、申告のなかった土地や国有地と認定された土地は国有地として朝鮮総督府が接収しました。そうやって朝鮮総督府が接収した土地は国土面積の1割にも満たないと言われています。

■文字

1443年に世宗大王が開発した訓民正音という文字は、長年、女子供が使う文字として公的に使われていませんでした。1886年、諺文を呼ばれていた、その文字を井上角五郎が初めて漢城周報という新聞で使い普及に努め、後にハングル(偉大なる文字)と呼ばれるようになり、現在、朝鮮半島全域で公用文字として使用されています。

■教育

朝鮮時代、知識は支配層が庶民を支配するためのものとして独占されていましたが、教育こそが国家の力の源泉だと考えていた当時の日本政府は朝鮮の国力を養うべく教育を広く一般に開放し、併合前に100校程度だった小学校を最終的には4000を超えるまで増やしました。高等教育についても1924年に大阪、名古屋、台湾に先駆け日本で6番目の帝国大学として京城大学(現在のソウル大学の前身)を設立しました。

■皇民化政策

一言で言えば併合により日本国民となった人々にも、同じ国の同じ国民として分け隔てなく、内地に住む日本人と同じ教育をしたということです。明治維新以前、約400の藩に分かれていた日本が中央集権国家をつくり天皇を元首とした統一国家としての同化教育を行った延長線上にあるもので、中には国旗国歌や教育勅語などを強要されたという人もいますが、同じ国であるからには当然のことであり、教育勅語についてはここで詳しく述べませんが、現代社会の常識に照らし合わせてみても至極まっとうなことが書かれており、日本のみならず世界に通用する内容ですから、読まれていない方は是非一度読んでみてください。

■創氏改名

いまだに日本が朝鮮人の名前を奪ったなどと言う人もいますが、1911年の時点では一部の朝鮮系日本人が日本内地風の姓名を役所に届け出たことを受けて、朝鮮総督府は内地人と紛らわしい姓名の届け出に対する制限を行うよう通達を出すくらい内地出身者と朝鮮系日本人が名前で識別できるようにしていました。

そもそも、現代日本では家の名前である「苗字」と本人固有の「名」の二種類しかないので、「氏」と「姓」が混同されおり、そのため「氏」を新たに創り「名」を改めるという意味が今一つ理解されていないようです。日本における「姓」というのは、本来、天皇から名乗ることを許されたもので、限られた人しか名乗ることを許されていませんでした。しかし時がたつにつれ同じ性の人間が増えてくると個人の識別が難しくなってきたため、自らの住む土地の名前などを姓とは別に家の名前として名乗るようになったのが「氏」というものです。

例をあげると徳川家康の場合、姓は「源」で、氏は「徳川」となります。大雑把に言えば「姓は」血筋を表し「氏」は家の名前を表すものであり、江戸時代までは、このような「苗字」を名乗ることが許されていたのは支配階層である貴族や武士など限られた人たちだけで、人口の大半を占める百姓町人は「苗字」があっても名乗ることを許されていませんでした。しかし、日本政府は明治維新を経て近代国家として国民すべての戸籍を明らかにする必要に駆られたため、全国民に対して「姓」と「氏」を一本化して「苗字」を役所に届け出ることを義務付けました。この時、姓を届け出た人、氏を届け出た人、自分で考えた名前を届け出た人、皆がそれぞれ思い思いの「苗字」を届け出たため、今の日本には「苗字」が10~30万種類あると言われています。(同じ漢字でも読み方の違うものもあるため)

一方の韓国は朝鮮時代から今に至るまで一貫して「姓」を名乗っています。では日本の「氏」に相当するものがないのかといえば、そうではなく「本貫」というものがあります。本貫も、一族発祥の地の地名に由来するものが多く、普段は名乗りませんが(最近まで同姓同本同士は結婚できなかったため、初対面の人同士で確認することはよくある)戸籍に記載されており重要視されています。これを日本に置き換えてみれば徳川家康の子孫も武田信玄の子孫も源氏の血筋を引くすべての人間が「源」と名乗っているようなもので、だから韓国は「苗字」の数が300弱しかないのです(本貫は約4000種類)。

朴槿恵大統領んなにも日本と苗字の数が違うのでしょうか。韓国では、今なお族譜と呼ばれる家系図のようなものが重宝されているくらい家系を重んじる社会であり、韓国人に先祖のことを尋ねるとほとんどの人から「先祖は両班だった。」という答えが返ってくることから推測すると、おそらく近代戸籍制度発足のどさくさに紛れて、姓を持たなかった人たちの多くが両班といわれる貴族の姓や昔からある姓を名乗り、新たに姓を作る人がほとんどいなかったのではないかと思われます。(それ以前に身分を金で買った人も多かったという一面もあります)

この日本と朝鮮の似て非なる名前を日本式に統一しようと、1939年、朝鮮に本籍のある日本国民(日韓併合により日本人となった人)に対して、新たに「氏」を創らせ、希望すれば「名」を改めることを許可したのが「創氏改名」で、これにより朝鮮出身の日本人は先祖代々の「姓」に加えて新しく作った「氏」の2つの「苗字」を持つことになったのです。ただし、従来の姓名がなくなったわけではなく、その証拠に日韓併合解消後には、すべての韓国人は元の名前に戻っており、現大統領の父親も、日韓併合時代は「高木正雄」という名前でしたが、昭和20年に「朴正煕」という名前に戻っています。

なぜ、当初区別していた内地人と朝鮮系日本人の名前を同じようにする創氏改名が行われたのかと言いますと、朝鮮式の名前だと中国人に馬鹿にされたり、何かと都合が悪いので日本式の名前を名乗りたいという朝鮮系日本人の要望に応えたからです。実際に当時の内務官僚で後に自民党国会議員になった奥野誠亮代議士が「朝鮮名のままだと商売がやりにくかった。そういう訴えが多かったので、創氏改名に踏み切った。私が内務官僚として判子をついた」と発言しています。

そしてこれは、任意の届け出であったため、届け出なかった場合は、元の「姓」がそのまま「氏」になるだけで特に不利益はなかったと言われており、朝鮮名のまま陸軍中将になった「洪思翊」や衆議院議員の「朴春琴」など、高位の公職に就いた人間は多数いました。

そもそも差別をするのであれば、差別する側とされる側を区分けしなければなりません。最も簡単なのは肌の色による区別であり、これは隠し様がありません。では肌の色が同じ人間同士を差別するときは、どうするのかと言えば、入れ墨を入れる、住む場所を隔離する、など差別する側とされる側に明確な違いを人工的に作り出すのが普通です。名前による区分けも一つの方法で日本や朝鮮でも昔は支配階層以外の人間は姓を名乗ることは許されず、また、その姓により、ある程度は家の格式が分かるような仕組みでした。

当時の日本政府が朝鮮半島出身者を差別しようと思うのであれば、日本名を名乗ることを許さず朝鮮式の名前を使い続けさせて区分けするはずで、それが良いのか悪いのかは別問題として、名前を同じにするのは同じ日本人として扱おうという意思の表れであり、差別を助長するものではないということは少し考えればわかるかと思います。

一色正春氏

1967年1月3日生まれ。元海上保安官。 2010年11月、尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件において「sengoku38」名で映像をYouTubeへ最初に投稿した。海上保安官退職後は執筆やテレビ出演、講演活動など幅広くこなす。12年、論文「中国の狙いは尖閣だけではない」でアパグループ第5回「真の近現代史観」懸賞論文で最優秀藤誠志賞を受賞。著書に『何かのために sengoku38の告白』(朝日新聞出版)などがある。

 

 

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