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2016年04月23日(土) 週刊現代

日本史に眠るトンデモ「性豪」伝説! ご先祖様たちはこんなに大らかに楽しんでいた
道鏡から伊藤博文まで

〔PHOTO〕gettyimages


下川耿史氏の著書『エロティック日本史』が話題だ。セックスの視点で日本の歴史を見直すと、大らかにセックスを楽しんでいたご先祖様の姿が浮かんでくる。日本の「性史」を覗いてみよう。

アソコに菩薩さまが

不倫だゲスだと、近頃世間では、やたらと性の「純潔」さが求められる様子。しかし、日本人が性に「純潔」を求め始めたのは、いつからなのだろうか。

「古来、日本人の性観念は非常におおらかで、セックスは趣味のひとつという位置づけでした」

作家で歴史家の加来耕三氏は、こう断言する。

「明治維新の頃、性に関してとくに厳格だったヴィクトリア朝時代の欧米の価値観が日本に入ってきました。一夫一婦制が『正しい』とされ始めたのもその頃で、日本では古来、立派な人格者でもお殿様でも側室や妾を抱えていました。貴族は男も女も和歌を詠んで異性を口説き、庶民は春と秋の年に2回開かれる祭りの日に野合(フリーセックス)を楽しんでいたのです。

性の楽しみ方は貴族と庶民では違いましたが『裸になれば一緒』という考え方は共通していて、セックスを自由に楽しんでいたことに変わりはありません」(加来氏)

日本の最高権威者であった天皇さえも、その自由奔放な性事情が庶民から親しまれてきた。

鎌倉時代に成立した高名な歴史書『水鏡』の異本には、奈良時代に二度も皇位についた有力女帝のセックスに関する描写があるという。今年の3月に『エロティック日本史』を上梓した性風俗史研究家の下川耿史氏が解説する。

「その女帝とは、孝謙天皇です。性豪伝説が描かれるのは、彼女が一度退位したのちに重祚(退位した天皇が再び即位すること)して、称徳天皇となってからのこと。

称徳天皇は怪僧・道鏡を側近へと召し抱えます。彼は『道鏡は すわるとひざが 三つでき』と、後世の川柳に詠まれるほどの巨根だったという。異本によると、称徳天皇は道鏡を寵愛しつつ、彼のペニスだけでは飽き足らず、もろもろの法師の『物』を受け入れてセックスに耽っていたとされています。

そして、ある日、道鏡が称徳天皇とコトに及ぼうと、彼女の『御開門』(女性器)に挿入したところ、『秘部の中に弥勒菩薩のいる浄土とソックリの光景が再現されていた』という。徳の高い法師たちと数多く経験を積んだことで、なんと女性器の中が極楽浄土になったというわけです」

ペニスを包む膣の感触が、浄土にいるかのような快楽を与えてくれる。まさに女性器が悟りを開いて「セックスの頂」に至ったという奇想天外な逸話だが、称徳天皇と道鏡にまつわるエピソードは、まだまだある。

なぜ「巨大化」したか

そもそも、二人の出会いは、称徳天皇が重祚する前の758年。一度皇位を退いた彼女は、ほどなくして婦人病を患ってしまう。その彼女を看病したのが、道鏡だった。

二人が静養の地として選んだのは、平城京のある奈良から遠く離れた、甲斐国奈良田(現・山梨県早川町)だという。同地の奈良田温泉には今も、孝謙上皇が湯治におとずれ、病気が快癒した後も数年間にわたって滞在した記録が残っている。温泉地で巨根セックスに耽っていたのだ。

また、彼女の死因についての逸話にも驚くべき珍説がある。道鏡の巨根にも慣れきって満足できなくなった称徳天皇が、山芋をペニスの形に削って楽しんでいたところ、それが膣内で折れ、取り出せぬまま亡くなってしまったというのだ。

一方の道鏡のアソコが「ヒザほどの大きさ」になった経緯についても、れっきとした言い伝えがあるという。

「高僧になって権力の座に近づこうという野心に燃えた道鏡は、3年にわたって大和国平群郡(現・奈良県平群町)の岩屋に籠もって修行していた。しかし、一向に成果が上がらない。

業を煮やして拝みつづけていた如意輪観音像におしっこをかけた。その最中に、どこからともなく蜂が飛んできてペニスを刺されたため、腫れ上がって大きくなったと伝えられています」(前出・下川氏)

蜂に刺されて得た巨根でアラフィフの熟女帝を籠絡し、一時は「皇位を継承すべし」との託宣まで得たのだから、怪我の功名もここに極まれり。

「英雄、色を好む」とはよく言ったもので、歴史に名を残す日本の偉人にも、男女を問わず伝承を残した人物が多い。

「平安初期に在位した嵯峨天皇は、56歳で崩御するまでに、24人の『后』との間に50人もの皇子と皇女をもうけた。日本でも有数の絶倫といえます。

しかし、そこで問題になるのが74名にも及ぶ妻子をどうやって養うのか、という点。この時期は凶作の年が続きましたから、国家の財政をかなり圧迫したようです。自身が後年、『男女やや多く、空しく府庫を費やす』と後悔したといわれています」(下川氏)

平安時代は、宮廷文化の成熟とともに女性が活躍の場を増やした時代でもあった。貴族の子女が、自由に性を謳歌した記録も多数残っている。

この平安貴族の女性のなかでも、とくに奔放だったことで知られるのが、和泉式部だ。彼女は冷泉天皇の第三皇子だった為尊親王と恋仲にあった。しかし和泉式部に「会う」ために夜な夜な出歩いた為尊親王は、流行病に感染して死んでしまう。ちなみに、平安時代の言葉では「会う」や「見る」は多分に「セックスする」ことを意味する。

恋人の死後、程なくして為尊親王の弟・敦道親王が和歌を送って口説いてくる。男なしではいられない和泉式部は、この誘いを受け入れた——。

『和泉式部日記』には、その冒頭から死んだ恋人の弟と枕を共にしてしまったオンナの複雑な心理描写のオンパレードだ。

ルイス・フロイスも驚いた

「和泉式部は、これ以外にもいろいろな男に手を出しすぎて、娘が生まれたときも、『父親が分からない』という和歌を詠むほど、奔放でした。時の権力者、藤原道長から『いい加減にしろ』と咎められても、性欲を抑えることはなかったといいます」(前出・加来氏)

一方で、同性愛をあけすけに語る女性もいた。

「『源氏物語』を著した紫式部は、男性よりも女性のほうが好き、と言っている。言い換えればレズビアンだったようです。10代で嫁ぐのが一般的だった時代、彼女は初婚が20代後半でした。女性と付き合っていることを心配した紫式部の父親が、その女性と別れさせるために無理に縁談をまとめたとも言われます。しかし、結局その夫と結婚後、数年で死別した後は、生涯独身を貫きました」(加来氏)

彼女が残した『紫式部日記』には、宮中に仕える女性同僚が寝ているスキにイタズラをして怒られたエピソードや、小少将の君と呼ばれる女性との愛を語り合う男女のような和歌のやり取りが収められている。

奔放な女性がいたのは、平安貴族のなかだけではない。戦国時代の歴史に詳しい歴史家の楠戸義昭氏は、こう話す。

「戦国時代に日本を訪れた宣教師のルイス・フロイスは、著書『日本史』の中で日本人が貞操を重んじない国民だと述べています。

当時の日本人女性は、欧米人のように肌を隠す習慣がなかった。腕や足を露出したり裸足で歩いたり、肌を露出することに抵抗がなく、フロイスにとってはカルチャーショックだったことでしょう。文化として根付いていた『混浴』も、女性の露出への抵抗感を減らすひとつの要素であったと考えられます。

さらに、当時の日本人にとって祭りは、オープンにセックスをしていい場でした。郡上踊りなどかつての盆踊りでは、夫がいる女性であっても他の男とのセックスが許されたのです」

合戦に次ぐ合戦で、夫と死別する女性が多かった戦国時代には、再婚する女性も多かった。

「徳川家康の祖母、華陽院は5回結婚していますし、織田信長の妹・お市の娘、お江の方は徳川秀忠との結婚が3回目でした」(楠戸氏)

戦国の女性たちは再婚をくり返し、一方で戦国武将たちは側室を数多く持って跡継ぎをせっせと作っていた。

吉原に突撃した伊藤博文

「天下人・徳川家康には正室が2人と、側室が16人以上いましたが、特徴的だったのは家康が未亡人ばかりを選んで側室にしていたことです。これには理由があって、加藤清正や浅野幸長ら同時期の武将たちは梅毒で死んでいる。その多くは遊女から感染したのです。

家康のスゴいところは、性病は何が原因なのかまでは分からないけれど、遊女と関係を持つと感染するんだ、ということを理解していたこと。それゆえ、彼は自分の周りの女性を、未亡人で固めたんです。子供を産んだ実績もあれば、自分の子供を産んでくれる可能性も高まりますからね」(前出・加来氏)

朝鮮ニンジンなどの薬草を独自に医師に調合させて服用、66歳でも子作りに成功した家康は75歳まで生きたが、「死去したとき、お六の方という側室は19歳」(前出・楠戸氏)だったという。

家康の曾孫で5代将軍の綱吉も相当な好色家で、家臣の妻と寝たがることで有名だった。

「武家の間では、位の高い武士を家に迎えた下級武士にとっては、一夜の相手として妻を差し出すことが最大のもてなしだったのです。

綱吉の代で特徴的だったのは、側用人だった牧野成貞という家臣。彼の妻・阿久里は、元々綱吉の母の侍女をやっていて、その縁で牧野と夫婦になりました。その後、まもなく2000石だった成貞の石高が、6倍の1万2000石に跳ね上がったんです。綱吉が、好んで成貞の家に通ったという記録も残っていますし、そのたびに自分の妻を差し出していたんでしょう。やがて、阿久里を気に入った綱吉は、彼女を自身の側室の一人として迎え入れるのです」(楠戸氏)

日本史上、性豪と呼ばれる人物は総じて、長生きであったことが特徴的だ。セックスは男女が陰陽の気を分け合う養生法とも考えられており、女好きの偉人たちは無類の健康オタクでもあった。

「日本の歴史上、最も多く子供を作ったのは江戸幕府の11代将軍・徳川家斉です。69歳まで生きて55人の子女をもうけました。彼は、当時貴重品だった牛乳を飲んでいた、と考えられています。同様に朝廷でも昔から乳製品が多く摂られていました。乳製品は薬と同じ扱いだったのですね」(加来氏)

明治維新を経てセックスの文明開化を主導した明治の元勲たちも、その下半身には江戸時代以来の豪儀さが健在だった。

寝床で、自分の左右に二人ずつ芸者を侍らせるほどの女好きで知られた初代総理大臣の伊藤博文は、当時最先端の乗り物だった馬車で連夜、吉原の遊郭を訪れていた。

そんなある日、一戦終えた伊藤博文が馬車に乗って帰ろうとしたところ、通りすがりの芸者にひと目ぼれ。すぐさま自分の馬車に乗せ、一晩中馬車を走らせながら、その中で日本初のカーセックスを楽しんだという。

だが、後日そのお相手が「馬車の中は狭くて、痛かった」と暴露したことで事が発覚。明治天皇から「女遊びは、少し慎んだらどうか」とたしなめられたとされる。

さらに初代大蔵大臣、内閣総理大臣などを歴任した松方正義には、妾が19人いたとも29人いたともいわれ、明治天皇に「子供はいったい何人いるのか」と聞かれたときも、すべてを把握していなかったとされている。

性のエネルギーに溢れた人々が動かしてきた日本の歴史。その起源をたどると、はるか古代から日本人の意識の根底に脈々と受け継がれてきた、命を生み出す性への信仰が感じられると識者たちは指摘する。

『歴史読本』元編集長で文芸評論家の高橋千劔破氏は、そもそも日本の誕生神話にもセックスが欠かせない要素として含まれていたと解説する。

「国産みの神話で、イザナギとイザナミがセックスをして日本列島を作ったことは広く知られていますが、神話にはその交わり方も書かれているのです。交接の仕方を教えたのは鳥のセキレイとされていますが、セキレイのつがいは腰を後ろから突くように動く。つまり日本で最初のセックスは、バックで行われたと言っていいでしょう」

そのほか、夜這い文化の起源も神話の中にあるという。因幡の白うさぎを助けた大国主命、いわゆる大黒天は、白うさぎと出会ったとき、実は八上比売という女性のところへ夜這いをかけに行く途中だった。

神話の時代からセックスに親しんでいた日本人。だが、明治の文明開化以降、「セックスは秘するもの」という考えが浸透、豪放磊落な性豪たちは表舞台から姿を消していった。だが現代にも性のエネルギーをばねに生きる人々の系譜は脈々と受け継がれている。

再び「性豪」の時代が来る

日本の性豪には「老いてなお盛ん」というイメージもあるが、これを地でいく現代の艶福家をご紹介しよう。

最初の一人は、1918(大正7)年生まれの性風俗研究家・安田義章翁。彼は、90歳で亡くなるまであらゆるエロスを追求し、性を題材にした絵画や写真、関連資料を蒐集しつづけた。明治・大正・昭和期の作品を集めたそれらは、「安田コレクション」と呼ばれるが、膨大過ぎる蒐集品の全貌は、いまだ明らかになっていない。

さらに安田翁は老境に至って、AV撮影の現場を見学し、監督に誘われるままに男優として飛び込み参加。エロスのために全人生を捧げた男性らしく、立派にその役をつとめあげたのだ。

年の差婚が一般的になったことで、高齢で子供を作る著名人も増えている。’97年、77歳で亡くなった俳優の三船敏郎は62歳のときに、内縁関係だった女優の喜多川美佳との間に娘が誕生した。これが、タレントの三船美佳である。

歌舞伎界には、もっと上を行く男がいる。’11年に81歳でこの世を去った5代目中村富十郎だ。’96年、66歳のときに33歳下の元女優と結婚すると、69歳で長男、74歳で長女に恵まれた。富十郎も、過去の偉人たちと同じように健康には気を配っていたという。

自由で快活なセックスは、日本古来の「文化」なのだ。前出の楠戸氏が語る。

「日本の性意識は戦国時代が非常にオープンで、ここ100年くらいが異常に厳格だったと言えます。女性の社会進出が当然の世の中になり、『家』に閉じ込められていた女性が解放されたことで、男女ともに性に奔放だった時代に戻りつつあるのかもしれません」

「生」と「性」を、もっともっと楽しんでみよう。

「週刊現代」2016年4月23日号より

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