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2016年04月27日(水) 河尻亨一

五輪エンブレム、なぜA案しかありえなかったのか?
大騒動を通じた2つの学び

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社会現象化したエンブレム騒動

新しい五輪エンブレムが発表された。ご存知の通り「市松模様」より着想を得たA案に決定したわけだが、これに関して早速、賛否両論出ているようである。もう、新しい案で進めるしかないのだろうが、これでスッキリ解決というわけにはいかなそうな空気もある。

筆者はこの騒動に関して、昨年より2度「現代ビジネス」に寄稿。年末には社会学者の加島卓氏とこのテーマに関して長い対談を行った

そもそもの執筆の動機は、問題とされた佐野研二郎氏のエンブレム案に関して、「これは盗作や模倣ではない」という確信があったためだが(いまもあるが)、その後、佐野氏が手がけたほかの仕事や審査プロセスに関して疑義が噴出することとなった。

こうしてエンブレムが一種の”社会現象”となるにつれ、日本のグラフィックデザイン史や広告業界の抱える構造的課題にまで言及せざるをえないことになっていった。

筆者の旧エンブレムについての見解に関しては上記をお読みいただきたいが、今回は新しいエンブレムについて考えるところを述べてみたい。

A案しかありえなかった

まず決定案に関して、読者はどのような感想をお持ちだろう?

最終候補作として、A~Dの4案がエンブレム委員会より世間に公表された後、各メディアによる人気投票なども行われたが、決定案は必ずしもそこで一番の評価を得たものではなかったようだ。

では、なぜ、エンブレム委員会はA案(組市松紋)を選んだのだろう? 最終投票の1回目で、これが過半数を超える13票(21票中)を獲得したことは判明している。

しかし、各委員がどのアイデアに投票したか? それはなぜなのか? 審査における議論の内容が現段階でオープンになっていない。そこがなんとなくモヤモヤする原因にもなっているのだが、わからないなら審査員になったつもりで想像してみるしかないだろう。

個人的見解であるが、アイデアの秀逸さとデザイン性の2点から、あの4案の中ではA案(組市松紋)しかありえない。これは私だけの考えではなく、デザイン業界中心に多くの人がコメントしていることではあるが、完成度や表現の深度の点でA案はB~D案より高いという印象を私も受けた。

これはあくまでA案との比較の話であり、B~D案が悪いデザインだと言っているわけではない。公開された制作者のプロフィールを見ると、B~D案に関してもデザイナー、アートディレクターとして仕事をされている方々とのことである。

B~D案がふさわしくない理由

では、どこにそれだけの差が出ていると考えるのか? まずB~D案に関して個人的レビューを記したい。

まず、B案(つなぐ輪、広がる和)について。これはメディアによる調査でも高い人気を得ていたものだそうだ。確かにシンプルで躍動感のあるデザインである。だが、オリンピックのマークそのものとのイメージの近さが気になった。

五輪のエンブレムは「その地で行われるオリンピックとは?」というお題に対するビジュアルとしての回答を出すことである。

その意味でこれは「東京のオリンピックとは?」という問いに対して、「いえ、たんなるオリンピックです」と答えているかのような印象がある。もちろん、人型を取り入れるなどデザイン的工夫は巧みに施されているが、根本的なアイデアに弱さがある。

オリンピックを異なる視点から解釈・再構築する「それぞれのオリンピック」を提示することが、各大会のエンブレムに課せられたミッションだ。

C案(超える人)はどうだろう? これも明快で力強い造型である。風神雷神という琳派の伝統モチーフを用い、マティス風というのか? あるいは岡本太郎風なのか? 人型に大胆なデフォルメを施し、オリンピックとパラリンピックの2対に落とし込むアイデアが面白い。

一方で、疑問も残る。今年開催されるリオデジャネイロの大会が躍動的な人型をエンブレムに採用しているからだ。2大会続けてそういったデザインが続くのはいかがなものなのだろう。くわえて「人」をデフォルメしたデザインは過去にも名作が多く、そういったものとの比較で「世界に対してどう見えるか?」と考えると、積極的には推せない気がする。

D案(晴れやかな顔、花咲く)は「朝顔」をモチーフにした大変親しみやすいデザインだ。カラーリングも美しく、好き嫌いで言えば私は好きである。

だが、このデザイン案のどこがどのようにスポーツの祭典につながっていくのか、コンセプトの文章を何度読んでも私には腑に落ちなかった。パラリンピック案への展開もスッキリしない。

B~D案はいずれも親しみやすいデザインだが、上記のことから私は五輪のエンブレムにはふさわしくないと考える。商標登録が可能ということは、どこにも類似するデザインがないということだが、それにも関わらず既視感があるのはどうしてだろう?

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透明性の担保なしに出来レース説は払拭されない

しかし、A案(組市松紋)は3案との比較においてかなり相違がある。その”違い”や”独自性”を言葉にするのが意外と難しいのだが、なんとかトライしてみたい。

まず「市松模様」という、ありふれていそうで実は意識されることの少ない伝統模様に着目し、ああいった有機的構造物として組み立てようという発想がなんだかスゴい。

しかも、「異なる3種類の四角形を組み合わせること」で「多様性と調和」に落としこんでいるという。抽象的だが斬新なアイデアにも思えた。記者会見でも話に出ていたが、平面でありながら立体を想起させるところも興味深い。チェッカー模様は世界的に知られるものであることから、グローバルな広がりも計算されているのだろう。

仕事柄、筆者は人より多くのデザイン物をじっくり見る機会はあると思うが、「その手はなかった」という印象を唯一受けたのがA案だ。オリジナル性の高いデザインだと感じた。

もし、私が審査員であったとして、「A~D案のひとつを」と言われれば、迷うことなくA案に一票を投じたことだろう。もっとほかの案がないのであれば。

ところがこのA案に関して、またしても「出来レース」だと言う噂が流布しているようである。宮田亮平委員長は発表会見で「(噂に関して)腹立たしかった」と否定していたが、その真偽について私は判断できる情報を持たない。

だが、A案とほかの3案との”へだたり”を考えれば、「これありき」という見方が広まってしまうというのも理解できなくはない。

エンブレム委員会は「透明性」を方針として掲げている。投票においてだれがどのエントリーに投票し、それはどういった考え方の元に行われたのか。審査ではどういった議論が交わされたのか。それらを公開するのはマズいのだろうか?

そういった”透明性”が担保されない限り、出来レース説はなかなか払拭されないかもしれない。

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A案はスポーツ感(シズル)に乏しい

本稿ではA~D案の比較でエンブレムに関して筆者の意見を論じた。だが、ここでひとつ”禁断の比較”をしてみよう。A案と佐野案を比べるとどうか?

私なら迷わず佐野案に一票を投じただろう。

A案は完成度の高い意欲的なデザインだが、弱点としてはスポーツ感(シズル)に乏しい。

デザインや広告は「そそる」ということが大変重要だ。簡単に言うと、ビールのコマーシャルなどでタレントが「ぷはーっ!」と飲んだり、缶に水滴がキレイについてるのがここで言うシズルだが、その表現の技巧はいかなるお題であっても重視されるものである。

佐野案には実はこれがあった。「Tと円」というシンプルな記号とシックな色合いの中に、躍動感と緊張感を封じこめていた。右上からいまにも落ちそうな円。それを受けて右下から跳ね飛ばしそうなカーブ。

そのコンセプトを展開させるモーショングラフィックス(動画)。エンブレムの黒と白を反転させることで表れるパラリンピックのイメージなど、スポーツの祭典を意識して、綿密に計算されていたのがこの案である。

公式デザインという制約のためかおカタいように見えて、見慣れるとふとした瞬間に「(勝利に)ウインクしている人」のようにも見えるキャラクター的構成が奥ゆかしくもチャーミングだ。

一方、A案は優れたデザインでありつつ、ここからはそういった”人間味”を読み取ることが難しい。世界数十億人が視聴する競技大会では難解に感じられるかもしれない。

これはどちらかというと万博やアカデミックな国際カンファレンスなどのマークにふさわしいデザインだと感じる。最後にふれるように、そういった意味において、時代に対する考察は佐野案より深いとも思うのだが。

騒動から学んだ2つのこと

こうして昨年より続いた一連の五輪エンブレム狂想曲も「ようやく幕を閉じるのか?」と思うと、個人的にはホッとする気持ちもあるが(オリンピックが終わったような気さえするほどで)、この騒ぎを通じて筆者もいくつかのことを学んだようだ。

まずひとつ。年末の加島氏との対談でも話題にのぼったが、今日私が記事で試みたように「デザインやクリエイティブはだれもが自由に語っていい」ということ。制作者による言葉もふまえたそれぞれの解釈により、こうやって”面白がる”ものだということだ。間違っても過剰にけなしたり作者の人格を攻撃するものではない。それがおおっぴらに行われてしまう社会は不幸である。

そして、もうひとつ。「デザインや広告はやはり時代風潮を映し出す」ということ。最終候補群はアイデアの面白さやデザインの完成度において差はありつつ、いずれもクセがなくこじんまりしていると私は感じた。色合いが派手とか地味とかいったことではなく、個性に乏しい。

言うならば、特に好かれも嫌われもしない無難な味わいという印象。複数の案が選ばれているわけだから、もっと強烈な個性を放つ案もひとつくらいあってもよさそうだが(約1万5000案の中にはあったと思うが)、そうじゃないものしか浮上して来れないのが、いまの時代というものかもしれない。

そういった時代に対する読みの深さでは、これも”無個性風”を装ってはいながら、やはりA案が興味深い。

これが「何を表現しているか?」と言えば、私見では現代の日本社会そのものである。

A案のデザインに秘められた「多様性という名の”曖昧さ”の中で、かろうじて形として成立している構造の危うさのようなもの」を見ているうちに、「これって時代の映し鏡かもな?」と、ふとそんな妄想さえ浮かんだのである。

これら5つのデザインを読者はどのように読み解かれただろう?

【筆者による五輪エンブレム関連記事】
1.五輪エンブレム、盗用疑惑にかき消されたデザインの真意(2015/08/06)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44577

2.それでもあの五輪エンブレムは”パクリ”ではない!〜そもそもデザインとは何か?(2015/09/05)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44972

3.五輪エンブレム問題、根底には「異なるオリンピック観の衝突」があった(2015/12/28)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47099
河尻亨一(かわじり・こういち)
銀河ライター/東北芸工大客員教授

雑誌「広告批評」在籍中には、広告を中心に多様なカルチャー領域とメディア、社会事象を横断する様々な特集を手がけ、多くのクリエイター、企業のキーパーソンにインタビューを行う。現在は実験型の編集レーベル「銀河ライター」を主宰し、取材・執筆からイベントのファシリテーション、企業コンテンツの企画制作なども。伝説のデザイナー石岡瑛子の評伝「TIMELESS—石岡瑛子とその時代—」をウェブ連載中。http://eiko-timeless.com/

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